春楡の木陰で 多田富雄著

良い本に出会えてよかった、と久しぶりにしみじみ思った。

免疫学の泰斗、多田富雄氏のエッセイ。脳梗塞で半身不随になってから書かれたもの。

氏の若き日のデンバーでの青春時代。場末のバーで、飲んだくれの客やバーテンたちの交流、中華料理店のウェイトレスとしての接客というなんてこともない交流から始まった、チェコとの生涯続く温かい交流。そして、夫人との旅の思い出、献身的な看病を続けてくれる夫人に捧げられた詩。

どれも、重い病床の中で書かれたからであろう、深い人間存在への洞察と、温かさ、生の喜びに満ちている。

例えば、夫人との旅の思い出を綴った「チンクエ・テーレの坂道」の一節。

「なんという青い海であろうか。指を浸せば染まってしまいそうな海だ。入り江の先は魂が消え入りそうな青い地中海だ。私たちはしばらく海を眺めて海辺に立ち尽くした。風が光り、かもめが舞った。二人の老境に入った夫婦はそれを眺めてしばらく無言だった」

魂が消え入りそうな青い地中海とは!。読んでいるだけで、鮮やかな光景が目に浮かぶようだ。間違いなく氏の人生のハイライトの一つの景色なのだろう。この景色は、夫婦の共通の生々しく鮮やかな記憶として残ったことだろう。そして、このような景色は、現在半身不随の身であるからこそ余計に美しく輝いたことだろう。非常に不遜なことであるが、病床の伏せるベットでこのような思い起こすことができた氏は、なんと幸せな方なのだろう、と思ってしまった。病を得たからこその僥倖、と第三者である私などは無責任にもそう感じてしまう。私は自分の終焉の際に、どのくらいこのような幸せな記憶を蘇らせることができるのだろうか。また、夫人の献身的な介護も胸を打つ。夫人との日々を綴った「比翼連理」は、半身不随という厳しい状況の中で書かれたとは思えない、ユーモアと温かみに満ちている。命を託した夫人への信頼と、夫人のために苦しいことも耐えられる、という氏の気持ちが痛いほど伝わってくる。

氏が敬愛する橋岡久馬師の演じた能を信州で見た思い出、「姨捨」は圧巻である。能を見ながら、氏が自分自身の人生で、何度も実質的な姨捨をしてきたことに気づく。舞台上の能楽師の舞い、地謡の声が氏の人生とクロスする、能舞台と氏の自身の人生が交差し、激しく反応して炎をあげる。能というのはそういうものなのか。

 実際に能舞台を目の前で見ているかのような臨場感に、電車の中であることを忘れてはらはらと涙がこぼれた。