読書 こんな夜更けにバナナかよ 渡辺一史著

札幌に実際した筋ジストロフィー患者、鹿野靖明氏と彼を支えたボランティアの実話で、数年前大泉洋主演で映画化された。素晴らしい映画だったが、本日原作を読み終え、映画以上に考えさせられた。
筋ジストロフィーという難病に侵された主人公とそれを支えるボランティアの話、と聞くと、それだけで「美談の感動もの」というお決まりのストーリーを想像してしまうが、全く違う。この主役の鹿野氏は自分の介護を無給のポランティアにさせ、それでも真夜中に介助のポランティアをたたき起こして「バナナを食べたい」と所望し、怒り半分必死になって食べさせると「もう一本食べたい」という、とんでもないワガママ王なのだ。「タダで介護していただいている」という卑屈さはみじんもない。そんな彼を支えるボランティアは、当時流行りの厚底サンダルで茶髪の女の子たちも混じった学生ボランティアたちだ。我儘放題の鹿野氏を介護している中で、彼らは「何のために自分はポランティアをしているのか」という問題に悩みながら、欲望むき出しで限られた生を生きる鹿野氏に、人間としてぶつかり、ぶつかり合いの中で自分の道を見つけ出す。まるで、若いボランティアたちが進むべき道を照らしだす、魂の助産師のような役回りであると感じた。その意味で、彼のような難病に侵された者は、その介護の大変さから病院や専門施設のような社会から隔離された場で介護されてきた訳だが、鹿野氏はあえてそれを飛び出し、社会で生きようとした。自らボランティアを集め、痰の排出スキルを教えるという困難に挑んだ。だからこそ、百人を超えるボランティアの輪ができ、彼が亡くなった後も毎年集うような人の輪ができた。
 「人に糞便の世話をさせるなど、迷惑をかけてまで生きていきたくない」と言われる。この本を読んで感じるのは、「人に迷惑をかける」ことの意味である。そもそも人生は、お互い人に迷惑をかけあうことで成り立っている。人生何が起こるかわからない中で、健康な者の誰もが、障害者となって人の手を借りなければ生きていけない立場になることがありうる中で、それは「迷惑」ではなく、当たり前のこととも思うし、それが優しい社会の条件であるはずである。また、鹿野氏は、「障害者はその肉親が一生面倒を見るのが当然である」という常識に抗い、自分の介護の現場からできるだけ親を遠ざけようとした。これも非常に考えさせられる試みである。
鹿野氏は自分が生きていくために、自分の体を教材にして自分で育てた介助者に自分の介助をしてもらっていた。そうやって育てたボランティアの多くがやがて医療や福祉の専門家に巣立っていった。鹿野氏の活動はその意味で教育活動だった。渡辺氏はこう書いている「鹿野は呼吸器を装着して以来、人生の主役は自分自身なのだという意識がますます強くなってきた。それは命のリスクを背負ってでも自立生活を成し遂げようとすること、そして苦労してボランティア集団を率いていくことが「人と関わること」、「人に伝えること」、「人を変えること」、とダイレクトにつながっているからだろう・・・・鹿野の活動は「労働と」位置付けることはできないだろうが、従来の福祉観、障害者観における(弱者/強者という)障害者と健常者の関係の枠組みを突き崩した、双方向的な人間関係である」と評している。
私は、これが「社会の中に生きる障害者」と「健常者」の新しい関係を示していると感じる。それは、さまざまな背景を背負った人たちがともに共生していくうえで、お互いが必要とする人たちなのである。
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