両親と南紀の旅

わけあって毎年夏の両親との旅行は今年は行けそうにない。
そこでこのゴールデンウィークは、大阪の両親と同居している弟一家と、南紀を旅した。

「1度は熊野本宮に行かなきゃ」と弟は言う。熊野本宮の神の化身「ヤタガラス」は旅の守護神だそうだ。

熊野本宮はもちろん、平安時代からの熊野詣での目的地で、1000年以上の歴史を持つ。ここで私たち一家は祈りを捧げ御守りを買い求めた。

那智勝浦で、「忘帰洞」と呼ばれる、海岸にできた大きな洞穴に湧く天然温泉に入る。湯船のすぐ下まで、荒波が押し寄せる豪快な眺め。しばらくこんな温泉に入る事もないだろう、と思うと、温泉好きの私にとってはたまらない。

翌日は、串本から大島に渡る。串本の町から大島には橋がかかっていて車でスムーズに入れるようになっていて驚く。あっという間に最南端の樫野崎に着く。

明治時代、親善訪問に訪れたトルコの軍艦が、日本からトルコに戻る帰途、この岬の沖合いで遭難。650人の乗組員のうち、生還できたのは69人という痛ましい海難事故があった。島の人たちが懸命に救助活動にあたり、日本政府は生存者を日本の軍艦でトルコに送り届けた。トルコが今なお親日的だと言われるのは、この事件のためであるという。岬の近くにはトルコ記念館があり、日本に着任したトルコの大使が必ず訪れる場所であるという。

この日は天気の良い穏やかな日。まだこの海底に多くのトルコ兵士が眠っていると思うと、心の中で祈りを捧げずにいられなかった。

実はこの場所は20年以上前、高校生の時に一人でやって来た。当時は串本からフェリーに乗り、島の乗り合いバスでごとごと20分くらい走ってこの岬に来た。バスの終点には、今のように売店や喫茶店などはなにもなく、ただ、海と原っぱだけがあった。

岬までの道はその当時は十分整備されておらず、道に迷ってうろうろしているうちに、何と、道端で夢中で抱き合っているカップルに遭遇し、呆然と立ちすくんでいると女性と目が合って、あわてて一目散に逃げた。何でこっちが逃げなければならないのか、と思いながら。
 というわけで2度目であるが灯台にたどり着いたのは初めて。とは言え、そんな思い出を傍らの息子や両親に話すこともできず、そっと青春時代の苦い思い出をかみしめた。

その日は白浜に泊まり、宿の風呂で、体を洗うのにも難渋している老父を見かねて背中を流し、髪を洗った。昔、家の風呂場で見た父の背中はもっと大きく、たくましかったのに、と思いながら。

最終日は朝から釣り。フグしか釣れなかったが、突堤で1メートルくらいある大タコを網で掬い上げたのが大収穫。子供たちも大はしゃぎだった。

車で大阪に帰る他のメンバーを残し、いよいよ我が家だけ先に電車で東京に帰る時間になった。息子はいとこと別れるのが寂しいといって涙ぐんだ。

すっかり体力が弱くなってしまった父と一緒に電車で大阪まで帰ることになり、ともに特急「くろしお」の車上の人になった。父と特急で旅するのは何年ぶりだろうか。おそらく、中学生か、もしかしたら小学生以来かもしれない。あのころは楽しかった。家族で旅行というのは一大イベントであった。家族は一緒にいるのが当然、と思っていた。
こうして30年ぶりに父と一緒に特急に乗り、そのときの幸せな気分がよみがえってきた。2時間ほどのつかの間の旅。父は途中の阪和線の駅で手を振って降りていった。そして私たちは新大阪で新幹線に乗り換え家に戻ってきた。

幼い頃、家族はずっと一緒、と思っていた。それは幻想だった。私の息子もいつか離れていくに違いない。こうして一緒にいる時間は僅かなんだ、と気づく。

父は後で母に、私に背中を流してもらったのがとても嬉しかった、言ったらしい。私も親孝行ができたのかもしれない。

家族との時間を大切にしたい、今しかないのだ、と痛切に思った。