Remember me

実は、以前書いていたフランスの旅行記の続きなのだが、恥ずかしくて一度書いて消去してしまった。最近、思うことがあり、もう一度書いてみよう、と思った次第。


ロカマドールを発つとき、今日の目的地であるルルドにどうやって行こうか、と考えた。

600キロ以上の道のりだが、ただ移動だけではつまらない。

いろいろ考えた結果、ロカマドールに近いルプレサックのいう小さな村が、「フランスの美しい村」に指定されていることを知り、ここに行くことにした。

車で30分の道のりだ。

リュベロンの谷を見下ろす絶景の丘の上にこの村はあった。

駐車場に車を止めて歩き出す。

15分も歩けば、一周してしまった。

来た道を戻ってみると、村の教会を見つけた。

そっと扉を押して入ってみる。

誰もいない教会。

ステンドグラスから明るい陽が射している。

椅子に腰掛けてみると、外の音も全く聞こえない、圧倒的な静寂が襲ってきた。

なんと心地よいのか。

いつまででも腰掛けていたい気持ちになり、祭壇のキリスト像を見つめた。

そして、傍らのマリア像を。

過去に何回か、仏教、キリスト教にかかわらず、思わず手を合わせたくなったことがある。

この時もそうだった。

自然に手を合わせていたのだ。

手を合わせるのが先だったので、後で「さて、何を祈ればいいのか」と考えた。

まずは、家族がいつまでも元気で暮らせますように、と祈った。

次に、自分もこの先ずっと健康で元気に暮らせますように、と祈ろうとして、奇妙な違和感を覚えた。

家族はそれでいい、だが、自分に対しては違うのでは? という気がした。

次の瞬間、思いがけない言葉を口にしていた。全く意図しないものだったが、ただ、確実に、自分の胸にそれまで眠っていた、自分自身の言葉だった。

「よき人生を」

自分が、自分らしい人生を送るためには、時として、病気をもあえて必要とする時がある、その時は甘んじてそれを受けよう。

その言葉の意味を、私はそう悟った。

そうか。こんな風に全ての答えは自分の中にあるのだ、心配することはないのだ。


「私のことを憶えていてください」

いい仏像やマリア像に出会って別れる時、私はいつもそう言う。

なぜか。相手の方が長生きするからだ。

特に何百年も前に作られた像を前にした時、これまで、この像は、何人の人間を前にしてきたのだろう、と考える。何十万人、いや、何百万人。そして、この後も、この像が崇拝の対象になっている限り、数え切れないほどの多くの人間がこの像の前に立つことだろう、と。

数百年たったあとのこの像の視点から見れば、私は数百年前に像の前に一瞬だけ現れた名も知らぬ人間に過ぎない。自分はいつか消えていく存在だからこそ、この像には憶えていてほしい。私が生きていたということを。

「Remember me」

この時はマリア像にそう告げたと思う。フランス語でどういうか、わからなかったから。

心地よい気分のまま、私は教会をあとにした。

まだ柔らかなはずの朝の太陽の光が、何故かとてもまぶしかった。

(写真はルプレサック村の風景。一番下は教会内に差し込む朝日)