ALSという病気

午前中に放映された「生きることを選んで」という番組はいろいろ考えさせられた。
http://www.minkyo.or.jp/01/2012/01/002625.html

山陰のテレビ局の報道スタッフだった谷田氏が突然次第に体中の筋肉が衰える難病(ALS)に罹患する。その闘病の日々と他の患者との交流を描いたものだが、カメラを向ける者の気構えも問われるような、硬質のドキュメンタリーだった。

特にショックだったのは、この病気は進行するとTLSという、まばたきすらできない状態に陥るということ。そうなる前は、パソコンや文字盤で意思を伝えることもできる。最近はまばたきで動くパソコンもある。しかし、まばたきすらできなくなったとき、周りとの交流するすべは全く途絶えてしまう。

視覚も聴覚も、意識もはっきりしているのに、である。

谷田氏は、TSLになっても生きる意味があるのかを問い、島根から東京の患者に会いに行く。

そこで患者家族から聞いたのは、

「お父さんは自分たちのために生きてそばにいてくれているのだ」という息子さんと、

「奥さんが帰宅するとパッと顔色がかわるんですよ。わかっているんですね」というお手伝いさん。

「一緒に年をとるということはいいことです。一緒に白髪が生えてね。写真になってしまうと一緒に年は取れませんからね」
という奥さん。

自分はただ横たわるだけ、意思も交わせず、介護をうけるだけ、という状態になってもなお、そこに生きる意味を見出す。

ただ、綺麗事だけではない。「家族にこれ以上迷惑はかけられない」と、気道切開して人工呼吸器をつけることを拒む(自然死を選ぶ)患者仲間もいる。人工呼吸器をつけると延命するが、家族の介護の負担は倍加するから、という。

それぞれの生き方があるので、どれが正しいとは言えない。患者の数だけ正解があるのだろう。

「自分がその立場に立ったらどうしますか」と問われて答えられなかった取材者は、谷田夫人の怒りを買ってしまう。

私がそこで感じるのは、家族とこんなに濃密な時間を過ごせることの大切さ。健康な人が、その健康を喪って初めて気づくことなのだろう。

病気になったからこそ得るものがあるのです、と闘病者はいうが、私はいまだ、だから素晴らしい、と言えるような覚悟を持ち合わせていない。

「生きることはどういうことなのか」

残るのは、重い問いである。