梨木果歩の「海うそ」を読む

ここ数か月、全く余裕がなかった。今月は、久しぶりに海外出張があり、ウイーンに出かけたりしたので、そのうち写真をアップしたいと思っているのだが。

ところで、今月通勤の合間に読んでいた梨木果歩の「海うそ」が素晴らしかったので、それを伝えるべく、久しぶりのブログ更新をしようと思う。ネタバレ注意、である。

主人公の若い人文地理学者が、昭和初期の南九州の島を訪ね、恩師の教授を足跡をたどる。慈しむように、地名、植物の名前を記録しつつ、島をつぶさに歩く。彼は心に傷を負っているのだが、村人との交流や、土地そのものが持つ力により癒されてゆく。

人生を防塁の建設に捧げた修行僧が建設した「良信の防塁」のように、古人の営みが心を揺さぶる。
村の青年との探索。カモシカとの出会い。モダンな西洋館でのひと時。

物語は、一気に50年後現代日本へ。そこから逆照射される、失われた「場所」や「時代」。古の人たちが慈しみ、育てたモノたちが、それに愛着を持たない他人によって、容赦なく破壊されていく。

時が流れる、ということ、生きるということは、どういうことなのだろう、ということを、改めてじっくり考え直してみる。

私にとって、小説冒頭のエピソードとして語られている、寄宿先の老夫婦が、たらい舟で湯浴みに出かけるシーンが、読後、実際に映画の鮮烈な1シーンのように目の前に迫ってきた。まるで、素晴らしい芸術品を観た時のように、目頭が熱くなった。そうなのだ、と思わず膝を打つ。

名もない古の人たちの生活の1シーンに過ぎないが、当事者たちにとっては、至福の時間。とうの昔に老夫婦はこの世を去っているが、生きている間に積み重ねられた至福の時間を、その場所は思い出として永遠に記録しているのではないか。

もちろん、そのことを知らない後世の人間にとっては、それは全く見えないし、知るよしもない、全く意味のないことである。

それでいいのだ。

生きている間、かえがえのない、幸せな時間が持てればそれでいいのだ。

人はもとより、歴史の闇の中に消えていく存在なのだから。

色即是空

だけど、空即是色。

生きることの意味がそこにある。