呑舟之魚不遊支流

異動してはや2週間が過ぎてしまった。

 今日、仕事で進学校で名高い某公立高校を訪ねたが、訪ねるに当たって、その高校のホームページを見たところ、校長先生の挨拶にこの言葉が書かれてあった。
 御本人に対してその意味を聞いたところ、舟を飲み込むような大きな魚は支流では泳がない、という意味で、列子の言葉だそうである。

 生徒に向かっては、「大志を持て!」
 教員に向かっては、「生徒達は呑舟の魚なのだから支流のような細い流れではなく、のびのび泳げる大河のような環境を作れ!」

という意味を込めているそうである。

 自分達を「呑舟の魚」として見守ってもらえる先生達に育てられる生徒達は幸せだな、と思った。公立高校であるが、校内を歩いていると、すれ違う高校生達がとても自然に「こんにちは」と声をかけていく。台風が接近した強い雨の中であるが、学校内を何か清冽な空気が支配している。

 一方で自分に対してはどうか、と思ってしまった。
 社会人になって20年。国のためにいい仕事をしたい、という意欲はなお持っていると自負しているが、疲労も隠せなくなってきた。ともすれば、もっと楽な仕事をしたい、とか、徹夜の国会答弁作りなど、この先も大変な苦労をして国の役人のメインストリートを歩まなくてもいいのでは、といった気持ちになる。

 この先、自分としては現場にできるだけ近いところを歩いていきたいと思っている。それが確信であると思っていた。ただ、こういう言葉を突きつけられると、「逃げているのかな」という気持ちになる。

不惑の年」を過ぎたはずであるが、まだまだ自分はその域に達していないと感じる。