ボッティチェリ

フィレンツェウフィツィ美術館の所蔵の代表作と言えば、いろいろあるが、まずはボッティチェリだろう。このビーナス誕生、春(フリマペーラ)はあまりにも有名だ。

モスクワから予約して行ったので長蛇の列に並ばずに入場できた。

特に、「春」は、繊細な植物の描写、明るい人物描写、さらに今なお、この絵の意味するところについて論争があることから特に見たい絵だった。

絵のウンチクについては、いろいろなサイトで解説しているので書かない。この絵が春の喜びから祝婚を表現しているというのが通説だが、死を表現しているという説もある。

私は素直に、春の喜びを表現した絵と受け取りたい、その明るさ故に好きな絵だから。

特に、小首をかしげたビーナスの表情やサンダルをはいた足元の草花の精密な描写、手を携えた三美神の甘美な表情がいい。そして彼女たちを上空から狙うキューピット、そして、未だその役割が争われる左端のメルクリウスと役者が揃っていて、我々に絵のなぞ解きをけしかける。

この両方の絵の中心にいるビーナス。同一人物だが、描かれ方は全く異なる。やはり同一人物のフローラが右側に配置されているのは偶然か? こちらの方は衣装は同じ。

などと、同じ部屋にある二つの絵を行ったり来たりしながら見比べる。この部屋はウフィツィの中でも特に混み合っているようだ。ひっきりなしに入ってくる日本人観光客の団体。

「アレ?オレ、この絵知ってるぞ。有名なヤツだろ」
得意そうに大声で絵を指さすオッサン。私は、この絵に会いたい、会いたいと思ってやっと実現したのに、オッサンはボッティチェリがここにあると知らないで来てるのか、何てやつだ、と思うがまあ仕方ない。このオッサンもこれがきっかけになってフィレンツェ絵画にのめり込むかもしれない。

でもオッサン達は絵の前をあっという間に通り過ぎていくのでのめり込むのは難しいかもしれない。私はこのボッティチェリのコーナーだけに1時間かける。個人旅行の醍醐味だ。

今から80年前にこの美術館に来た和辻哲郎は、ボッティチェリの才能を認めつつも、その色彩、描き方に物足りないものを感じたとある(イタリア古寺巡礼)。

私も画集で見すぎたせいか、実物を前にした感動は期待したほどのものでなく、少し拍子抜けした。人が多すぎるせいかもしれないし、感動をぶち壊すようなさっきのオッサンのような人々に少し疲れたのかもしれない。

ボッティチェリの生涯に描かれた主要作品がこの部屋に揃っている。他にも、「ざくろの聖母」などは、マリアの周りに集う天使たちの表情が、まるで電車の中に集まって会話している女学生のように生き生きしていて面白いが、一方で、マリアの表情には深い憂いが。

興味深かったのは、「誹謗」の絵だ。

「春」や「ビーナス誕生」の明るさはそこにない。裸の青年としての「無実」が、「誹謗」に手をひかれ、裁判官としての「不正」の前に引き出されようとしている。ロバの耳の「不正」の耳元にささやく、2人の女「無知」と「猜疑」のヒステリックな声が聞こえてきそうだ。

 彼がこの「誹謗」を描いたのは晩年であり、彼の失望が画風そのものを変えてしまったようにも見える。

 あまり良く知られていないが、ボッティチェリは、フィレンツェの享楽的傾向を批判し、その後政治を牛耳ったサンマルコ修道院長サボナローラに傾倒した。このため、画風には憂いが濃くなっていく。「誹謗」の無実の青年も、サボナローラを例えようとしたのかもしれない。

 サボナローラが火刑に処せられてからは創作意欲を無くし、最後は極貧と失意のうちに寂しくその生涯を閉じたという。

 ずらっと集められたボッティチェリの絵を見ながら、波乱にとんだ彼の生涯を偲んでみた。

それにしてもこの絵たちが描かれたのは600年も前。

この絵たちは、その時代の息遣いや画家の心情が、みごとに現代を生きる私たちに届けている。

芸術というのはすごいものだ。