立ち昇る静謐


数ある「受胎告知」の中でも、フィレンツェ・サンマルコ美術館の、フラ・アンジェリコの筆による「受胎告知」ほど、是非見たい、と強く思っていた絵はない。

ブリュージュから、ブラッセル、そして飛行機でローマ、レオナルドダビンチ空港から鉄道を乗り継いではるばるフィレンツェに到着したのは夜中だったが、翌朝、一番に駆け付けたのがこのサンマルコ。

いよいよその絵に会える、と思っただけで目覚めてからうきうきする気分だった。

サンマルコ美術館はかつて修道院だった建物。まず回廊や一階の絵を鑑賞し、いろいろ本命のある2階に向かって階段を上りはじめる。

踊り場で向きを変えて、さあ、と2階を見上げるとまっすぐあの「受胎告知」が目に飛び込んできた。

前に立ってじっと絵を鑑賞する。長い間、見たいと思ってきた絵に会えた、至福の瞬間である。



間近で目を凝らしていると、画集を見ていたときには気がつかなかった、いくつかの発見があった。

一番大きな発見は、キリスト懐妊を告げに来た大天使ガブリエルとマリアは、見つめあっていると思っていたが、実際は違っていたことだ。ガブリエルは確かにマリアを見つめているが、マリアは遠くの方に視線を泳がせていたのだ。

小さな画集で見る限り、懐妊を告げられたマリアが、驚き、とまどい、という時間が過ぎ、やがて、その事実を受容したのだろう、だからガブリエルの目をしっかり見つめる表現がされているのだろう、と思っていた。

が、実物を見て、私の解釈が間違っていたことを発見した。

そこにあるのは、キリストの懐妊を天命として受け入れた強いマリアではなく、むしろ悲しげな感じである。それは、生まれてくるキリストの受難を早くも悟り、これからの苦難の人生の予感を諦観にも似た気持ちで受け止めようとしているマリアだった。

アンジェリコの筆は少しも気負っていない。そんな不安げなマリアを優しく包み込むように、落ち着いた色調で描いている。

一方で、ガブリエルの羽根は何色も使って描かれていて鮮やかであるが、けばけばしい感じはまったくしない。

そして絵全体が、まるでいつもと変わらない午後の出来事の一コマのように、ごくさりげなく描かれている。

フラ・アンジェリコは14世紀に活躍した修道僧の画家であるが、いずれも絵から立ち上ってくる、何とも言えない、静かな感じが好きだ。修道僧としての彼の祈りの日々を彷彿とさせる。

この絵は特に、静謐そのものだ。


期待通りの見事な絵だった。