あの日の交通事故

その事件が起こったのは、何年前だっただろうか。

 研究所で私の同僚だったA君はその夜、忙しかったらしい。外国人研究者として日本に来て研究していた彼は、実績が認められて、1ヵ月後に家族ともども新天地のアメリカに渡ることが決まっていた。論文を仕上げるため、遅くまで研究室に残って実験していたという。
 深夜、雨の中、帰宅するために自動車に乗り込み、研究所を出た。

 そのころ、B氏は、終電車から降りて、駅から傘をさして歩き出した。妻と2人の子どもが待つ自宅に向けて。長年契約社員だったが、実績が認められて2週間後に正社員となることが決まっていた。疲れながらも心弾む家路であっただろうか。


 何の関係のなかったこの2人の運命が、路上で交錯した。B氏はA君の車のボンネット上に跳ね上げられ、そして倒れた。


 A君はあろうことか、はねたB氏を現場に放置して帰宅してしまった。異国で起こした、あまりに重い出来事に我を忘れてしまったのか。

 翌朝、家族に説得されて警察に出頭し、拘置された。

 私は翌朝、この話を聞いて驚愕した。A君の奥さんと、ちいさなお嬢ちゃんの顔が目に浮かんだ。連絡を取ろうとしたが、拘置中で全く連絡を取る事ができない。

 A君の友人達が集まって、どうしたらA君をサポートできるか、相談した。友人のある者はA君の家族のサポートに、ある者は被害者のB氏宅に赴き、私はカンパ集めと刑事手続きのサポートをすることになった。

 カンパを私の同僚たちに呼びかけたところ、驚くほど反応があった。A君は外国人のビジター研究者だったから、A君とは話したこともない人たちがほとんどだった。それにもかかわらず、異郷での境遇に同情した研究者達から、ぞくぞく寄付があった。A君の研究室と仲が良くなかった大御所の大研究者までも、「これで子どもの何か買ってやってくれ」と、お金を包んで持ってきてくれた。

 弁護士会に電話して、弁護士の手配をお願いした。加害者はお金がないのだが、と言ったところ、そのような人のための扶助制度がある、ということで、利用を勧められた。ただ、その制度を利用した場合、弁護士は選べないとのことだった。弁護士を選んでいる金銭的な余裕はなく、その制度を利用できるだけでも有り難かった。

 今後の弁護活動に必要な通訳について、私の知り合いの通訳さんに事情をお話し、可能な限り報酬もカンパで集めるので協力して欲しい、とお願いしたところ、「今日までいろいろ仕事をさせてきてもらって子供たちも独立したので、そろそろ社会に恩返ししなくては、と思っていたのよ」とおっしゃって、無料で通訳を買って出てくれた。頭が下がる想いだった。


 異国で夫が警察に拘置されてしまったA君の奥さんの憔悴は大変なものだった。一方で友人達の間で金策に走り回っていて、その間、我々の友人がA君の娘の子守を買って出た。ただならぬ周りの雰囲気を感じ取って、娘も神経質になっていた。よく泣いたという。
 あと1ヶ月、平穏にすぎれば、A君一家には新天地の米国の生活が待っていたのだ。

 一方、被害者のB氏の家族を訪問した友人からも報告があった。

 B氏は重体で意識が戻らず、B氏の奥様がつきっきりで看護しているという。一命はとりとめることはできそうだが、当分意識は戻るまい、いずれにしても社会復帰は絶望的、と医師から言われたという。

 保険会社も動き出したということでその動きは詳しくわからないが、「保険会社は慈善事業ではありません」と担当者は開口一番言ったという。つまり、被害者の落ち度は、保険料の支払いに際してきっちり反映させてもらう、ということらしい。一方でB氏の意識が戻らず、保険会社の言い分に反論ができず、このままでは被害者の落ち度が大きいという保険会社の言うままに進みそうで、今後の補償は十分確保できないかもしれないという。

 また、会社の人が病院に訪ねてきたが、契約社員だったので、会社からの補償も期待できない、という。「後2週間で正社員だったのに・・・」と奥さんは悔しそうだったという。

 それでも、疲れきった表情の奥さんは、中学生の2人の娘さんを前に決然と、「交通事故というのはちょっとしたきっかけで偶然起こるもの。どちらも被害者みたいなものですね」と言ったという。A君の刑を重くすることは望まないと裁判所に言っても良い、とまで言ってくれたらしい。 友人によると、さらに奥さんは、「主人の社会復帰は難しいとお医者さんに言われたが、私は奇跡を起こしたい。私のこれからの仕事は、ただ看病することです。だからもう構わないで下さい。あなたがたにこれ以上迷惑かけたくないのです。」と静かに言われたという事だ。

 なんということだろう。ちょっとした弾みで起こった交通事故が、平和だった二つの家庭を滅茶苦茶にしているのである。


 それにしても、この奥さんの強さは何なのだろう、どうしたら人間はこのように強くなれるのであろうか。


 裁判の結果が出ることになっている当日、電話が鳴った。罰金刑ですんだので、身柄を引き取りに来て欲しい、ということで、通訳の方と車で検察庁に迎えに行った。このような場合の刑としては異例に軽い、仲間の活動を裁判所が評価してくれた、と弁護士は言っていたが、A君はうなだれて笑顔はなく、疲れきっていた。

 彼の渡米をどうするか、という問題があった。補償も済んでいない。ただ、渡米して生計を立てていかなければ、補償もできない。だけど、意識の戻っていない被害者を置いて米国に行ってしまうのは、あまりに無責任ではないか、と思ったのだ。A君は釈放後、謝罪も含めて何度か被害者の奥さんを訪ねているが、奥さんはA君を日本に引きとめておくつもりはない、という。「補償してもらいたいが、それ以上のことは求めません。できるだけ普通の生活をしてください。私達はただ看病するだけですから、日本にいてもらう必要はありません」と言われたそうだ。


 ある日研究所に出勤すると、机の上に便箋の走り書きがあり、A君の字でこれまで世話になったことについてのお礼が書かれてあった。


 A君一家はこうして、米国に旅立っていった。私は空港での見送りもできなかった。


 それからしばらくして、A君の所属していた研究室は、研究プロジェクト終了とともに解散した。A君を支えた友人達もばらばらになり、研究所を去っていった。私も異動になり、研究所を離れた。いまでは、みんな音信不通になった。

 おそらく、この先私はA君と会うことは一生ないだろう。


 この事件はみんながつらい思いをした。達成感はない。2−3回、一緒に食事をともにしただけのA君に、どうしてそんなにのめり込んだのか、自分でもわからない。ただ、彼を支えようとした周りの友人達、A君の娘さんと一生懸命遊んであげていたC君など、周りの優しさだけが私の身に滲みた。


 一番気がかりなのは、一度もお会いしたことはない、B氏の奥さんのことだ。B氏はどうしているのだろうか。奥さんが言っていたように「奇跡」は起きたのだろうか。そう強く願わずにはいられない。


 この事故は何を残したのだろうか。当事者2家族の不幸はもちろんである。ただ、傍観者的な見方を許してもらえるなら、この事故の関係者の中で、唯一、英雄といえるのがこの奥さんではなかろうか。少なくとも私にとって、このような人がいる、ということを知った事だけが唯一の救いである。


 当事者の多くがこの事件を忘れていく中で、最も長い間、事件を引きずるのがB氏一家なのである。奥さんは今でも毎日看護に追われているかもしれない。その中でも、あの時の強さを失わないで欲しい。


 ほんとうの英雄は、人々の華々しい歓喜と賞賛の輪の中にいるのではない。世の中の片隅に、誰も知らないところに本当の英雄はいるのだ。