再び「Never let me go(わたしを離さないで)」をみる
持ち帰り仕事がテンコ盛りの筈なのに、今日は朝から映画を観てしまった。
4月23日の日記に書いた「わたしを離さないで」。
イシグロカズオの原作もそして映画も本当に素晴らしかったから、もう一度見たいと思い、英文の原書とDVDを購入した。
原書は早々にギブアップして、「また今度」状態になってしまっているが。
やはり、最後まで正視できない。
息子が近くにいなかったので最後まで見続けることができたのだが。特に、ラストシーンは胸が締め付けられる。
ただ、このラストは微妙に原作とニュアンスが違う。原作は、主人公は、臓器提供者としての自分の運命を決然として受け入れる。だが、映画では、主人公は自分をそのように運命付けた社会に憤っているように見える。(私は原作の方が好きだ。)
米国で上映された際には、観客から「なぜ主人公は、運命を受け入れてしまうのか。なぜ闘わないのか」と疑問の声があがったという。
この物語が問いかける主題は多い。
私は、映画を観ながら、沖縄の故・島田叡知事を思い出していた。
内務官僚の島田氏は、大阪府の部長であったが、沖縄への米軍上陸の直前、沖縄県知事の内示を受けた。それはほとんど死を意味することであったが、「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」と回りの反対を押し切って受け入れ、赴任し、そして殉職した。今も遺体の行方もわからないままである。
運命に逆らえないときもあるのだ。
今回の震災でも、多くの人々が公務に殉じた。
残っている者がいないか、声を嗄らして確認に回っているうちに津波に呑まれた消防団員や警察官。
町役場で避難を呼びかけるマイクを握ったまま、命はてた職員。
彼らが残された者たちに投げかけた問いをしっかりと受け止めねば、と思う。