雲は答えなかった

死の直前まで水俣病訴訟での和解勧告を拒否する会見を指揮するなど、政府の水俣病対策の責任者だった環境庁の山内豊徳企画調整局長。その生い立ちから仕事ぶり、家族との生活、そして1990年12月に自死を選ぶまでを描いたノンフィクション「雲は答えなかった」。「そして父になる」で昨年カンヌ国際映画賞を受賞した是枝裕和監督が20代に自ら取材して書き下ろした。お決まりのパターンの「自己の良心と組織の論理の間で板挟みになった官僚の悲劇」と片づけず、家族や友人の証言を交え丁寧にその生涯を追い自死の理由に迫った温かい筆致に脱帽した。

山内氏が15歳の時に自作して以来、生涯折に触れて書き写していたという詩が秀逸。常に「しかし」と問う、こんな気持ちで仕事ができればどんなに素晴らしいことか。
しかし、という言葉は自分の良心に照らして、現状を問うことである。その意味では、行政官にこそ、求められる言葉だ。この言葉を発する情熱を失ったとき、それは行政官の仕事を辞める時なのだろう。