ハバロフスク

ウラジオストックの「海の駅」は、小雨模様だった。

ホームで、先程まで会議で一緒だったハバロフスクの研究者に会った。これから一緒の列車でハバロフスクですね、と言いながら、ハバロフスク行きの「オケアン号(英語では「Ocean号」)」の寝台車に乗り込む。彼と同じ号車、そして、何と、2人部屋の一等寝台が彼と同室だった。

お互い、切符を覗き込みながら「すごい偶然だねえ」と喜び合う。
モスクワとハバロフスクで別々に切符を買ったのに、何という偶然。
実は、ウラジオストックのホテルでも、全く別々に予約したのに、彼の部屋は私の隣の部屋だったのだ。

翌朝、8時にハバロフスク駅に到着。

ホテルにチェックインする。

すると、ホテルのロビーにどこかで会ったことのある女性の顔が。

あっと驚いた。モスクワのサークルで、つい最近まで一緒にだった仲間。

「3日前にハバロフスク転勤になりました。まだ家探し中でホテル暮らしです」と笑う。

しかし、世の中せまいものだ。

夕方まで仕事。

夜、ホテルに戻ると、ジジョールナヤ(旧ソ連のホテル特有の、各階ごとの管理人)に鍵を貰おうとすると、私の名前についてこんな風に話しかけられた。

たとえば、私が「雨守」という名前だっとしよう。彼女は「アマモリさんって、天、森と書くのか」とロシア語で聞いたのだ。

正しい漢字を教えてあげた後、ロシアで私の名前の由来について聞かれたのは初めてですよ、と言いながら聞いてみると、彼女は訪日経験3回、「ミヤギが大好き。松島、温泉、塩釜の魚。また行ってみたいわ」とうっとりするような眼で言う。彼女のデスクの携帯テレビでは、NHKが流れていた。いつも見ているのだと言う。

彼女とひとしきり会話を楽しんで、上機嫌で部屋に戻る。

上着をハンガーに掛けると、とたんに電話が鳴った。
ロシア語で話す女性。「分からない」と言うと、とたんに日本語に切り替わり「オンナノコハドウデスカ」。
すぐに電話を切った。

翌朝、朝食を食べにジジョールナヤに鍵を渡すと、「よく眠れた? 」「うん。朝ごはんの後、この辺を散歩します」「気をつけるのですよ。本当に気をつけるのですよ。危ないからね」と本気で心配された。

広大なアムール川のほとりを散歩する。
郊外の日本人抑留者の慰霊碑も訪れた。

広大な土地だった。

敷地はよく整備されていたが、日本語で書かれた慰霊の文字の脇に、性的な言葉や、「ファシストは帰れ」との落書きがあった。
過去、何回も落書きされたのだろう、何回も落書きを消した跡があり、石版も割れた後があった。

こんな所業はごく一部の者だけと思いたいが。

維持にあたる現地領事館の苦労は大変だろう。

写真上 ウラジオストク 海の駅
中   オケアン号
下   日本人慰霊碑