3月11日〜18日 光のウラジオストク

13日から16日まで、ウラジオストックに滞在した。経度的には広島と同じ位なのに、2時間も時差があり、ウラジオの方が早いため、午前8時でも暗く、日が暮れるのも午後8時ごろ。

20年前にはじめて来た時には田舎の駅のようにボロかったウラジオストク空港が、巨大なビルに建て変わっていて息を呑んだ。空港から市内まで、昔は1時間以上かかったのに、今はハイウェイで30分程度。

ホテルで目覚め、翌朝昨年APECが行われたルースキー島に渡る。会場跡地は極東連邦大学になっていた。教室や学生寮も見せてもらったが、これで近々ここで大学がスタートできるのか、大いに不安だ。計画優先、実際の学生や教官の身にならないロシアらしい。学生寮はホテルを転用したものなので、ベットと机だけ。調理台もない。こんなところで生活ができるのか。ツインの部屋が二人部屋の学生寮になっていたが、息が詰まりそうだ。

驚いたのは、人々が大手を振って政府の悪口を言うようになっていたこと。かつてのロシアを知っている私としては本当に驚きだ。

20年来の知己であるロシアの研究者に会うと、日々仕事や生活は改善されているらしく、ほっとする。

朝、ホテル周辺のウラジオストック駅まで散歩してみた。ここからモスクワまで9200キロ、7日間の旅だ。今自分はユーラシアの東端、太平洋岸にいる。ユーラシア西端のポルトガル、ロカ岬にも行ったことがあるが、12000キロくらいかなあ、地球は広いなあ、としみじみ思う。そういえば、3年前、私はここからウラン・ウデまでの約4000キロをシベリア鉄道で旅した。そのとき、寝台車で偶然同室になり、車窓を見ながら語り合ったハバロフスクの研究者は、もうこの世にいない。彼の死は我々のプロジェクトにとって大きな痛手だった、なとど感傷に近い思いが次々によぎる。

駅の近くの公園には、レーニン像があり、空を指差している。私にとっては、社会主義の完全なる崩壊を見て、天を仰いで嘆いているように見える。それにしてもこの国は、いつまでこのような前世紀の遺物を抱え込んでいるのだろうか。
それとも、ソ連、という時代があった、という文化財としての価値を見出しているのか。

日本への留学を勧誘するイベントに出席して驚いた。そこには、日本語を流暢に操る若い学生たちが、会場を訪ねてくるロシア人学生たちに、自らの体験を熱っぽく語っていた。聞けばほとんど私の勤務先の大学への留学生OB、OGだった。彼らの流暢な日本語、「またサッポロに行きたいデス」とうっとりするように語るのを聞くと、わが国も満更捨てたものではないなあ、という気がした。

湾の外はまだ海氷がびっしりで、その上を自動車が走り回っている。「大丈夫なのか」とロシア人に聞くと、「大丈夫じゃない。毎年何台か沈む」と言う。「まるでロシアンルーレットだな」と言うと、「あはは、うまいこと言うなあ」とロシア人からほめられた。

ロシアではこことソチの2箇所しかないケーブルカーを使って展望台まで上る。金角湾をまたぐ橋ができて、景観は大きく変わった。本当に明るい町だ。見ると湾内に停泊している海軍の船からもくもくと煙が出ている。「あの船、火事じゃないのか」とタクシーの運転手に声をかけたら、「晩飯の炊事の煙だよ。心配ない」と愉快そうに笑っていた。本当かな。


展望台の手すりには、結婚式を終えたカップルによる、永遠の愛を誓う南京錠がたくさんはめられている。ロシアの離婚率は50%を超えるといわれているので、この鍵を付けたカップルの半分が別れる計算だ。「別れたら鍵を撤収するのかねえ」と同僚に冗談を飛ばしていたら、「あんたは人が悪いねえ」と呆れられた。