寿福寺のお墓巡り
近所の寿福寺の墓地を散歩。観光客に北条政子や源実朝のお墓を案内していると、俳人、高濱虚子の45歳年下の愛弟子、結核で29歳で逝った森田愛子のお墓を見つけた。実はずっと探していたのだった。
療養のために鎌倉を離れて福井に帰郷した愛子を虚子が訪ねる。2人の前に虹がかかり、「虹を渡って鎌倉に行きませう。今度虹がかかる時に」という愛子に、虚子は、「虹たちて 忽ち君の在る如し 虹消えて 忽ち君の無き如し」と詠む。
愛子の小さなお墓は、虚子のお墓の数メートル先にあった。周りのお墓がみんな山を背に南を向く中、愛子のお墓だけは虚子をじっと見つめるように、1人だけ山側の虚子のお墓を向いている。死の直前、愛子が虚子に送った電報は、「ニジキエテ スデニナケレド アルゴトシ アイコ」。死せば虹がなくとも自分は師のそばにいつもいる、という意味か。切ない歌である。
一方で、彼女のお墓を誰が立てたのかも気になる。もし虚子だとしたら、景色が全く違って見えるかもしれない。
川上弘美著「あるような ないような」(中公文庫)から一部引用しましました。
次は自分だ
父を亡くした。
死の知らせを受けて家族を連れて慌ただしく大阪に戻り、通夜、告別式に臨んだのが1か月ほど前。
長いこと寝たきりで、秋になってからは医師にもう長くないと聞かされていたので、覚悟はしていたし、亡くなる一週間ほど前には日帰りで大阪に戻り、病室で父の手を握り、これまでの感謝を伝えた。
いつもは寝ているだけで、ほとんど意識のない父だったのが、この時だけは手を握っている2時間ほど、じっと目を見開いて私の話を聞いていてくれた(ように見えた)。病室を辞す時もなかなか手を解いてくれなかったほど、強く握っていた。今から思うと、もっと長く手を握っていればよかった、と悔やまれる。
葬儀に参列してくれた高校時代からの、60年来の父の友人は、高校に入学したときに父と一緒に撮ったという写真を、棺に入れてくれた。入学してすぐ意気投合し、「君とは一生の友達でいたい。一緒に写真を撮ろう」と強引に父に写真館に連れていかれたらしい。その言葉どおり、こうして葬儀に至るまで父の友でいていただき、写真まで大事にとっていただいていた。おとなしい性格だった父にも意外な一面があったことを知ったが、縁というのは不思議なものだ。
実は通夜の日は、担当している法案の国会審議の当日という、私の30年ほどの仕事人生の中でも、その重要度において1−2を争うほどの大事な仕事の日だった。しかも私はその責任者の一人。同僚たちが徹夜で奮闘している中、放り出し、すべてを同僚に任せて大阪に戻ったわけだが、夜だけでもいったん東京に戻り、答弁作成を手伝おうか、と真剣に考えていた。私人生の一大事と、仕事の一大事が一緒に来るとは。結果的には同僚たちのおかげで、私は父との夜伽をこなすことができたわけだが。
斎場で、父の遺骨と対面したとき、ああ、これで本当に父はいなくなったのだ、という思いと、次は自分だ、という強烈な思いが私を襲った。父と私との年齢差は30歳。これは私の30年後の姿かもしれない。仕事を始めてから約30年はあっという間だったから、これからの30年もあっという間だろう。しっかり生きなさい、と父に言われた気がした。
雲は答えなかった
「海街ダイアリー」や「そして父になる」といった映画が有名な是枝監督が書いたドキュメンタリー「雲は答えなかった」を再読。1990年、水俣病の担当局長として随行予定だった、環境大臣の水俣入りの日に自ら命を絶った、山内豊徳 環境庁企画調整局長の生涯を追った作。
「和解拒否」といった組織としての立場と、自己の良心の板挟み、は役所でなくてもどの組織にもある。それは俺の意思じゃない、役所の意思なんだ、と普通の役人なら思おうとする。だが、局長はそう思える人ではなかったのではないか、官僚としては持ってはいけない、そんなナイーブさが致命傷になったのでは、と本書は示唆している。マスコミは単に和解を拒む環境庁を厳しく指弾するだけで、担当局長を板挟みにしている環境庁自身も含めた役所集団の構造には世間はなかなか気づくことはない。
作中に紹介された山内局長の自作の詩「しかし」は感慨深い。少し引用すると、
「しかし」、、、と
この言葉は
絶えず私の胸の中で呟かれて
今まで私の心のたったひとつの拠り所だった
私の生命は、情熱は
この言葉があったからこそ
私の自信はこの言葉だった
けれども、
この頃この言葉が聞こえない
(中略)
「しかし」と。
人びとに向かって
ただ一人佇んでいながら
夕陽がまさに落ちようとしていても
力強く叫べたあの自信を
そうだ
私にもう一度返してくれ
常に自分の良心に照らして「しかし」と問うこと。そんな姿勢で行政という仕事に立ち向かえたら何と素晴らしいことか。詩を書き取って自室に貼った。非常に勇気づけられる。
細やかな心情の描き方という点で、是枝監督の映画は大好きだが、監督の手によるこのドキュメンタリーも暖かさに溢れている。
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日本死の臨床研究会年次総会に参加する
札幌で開催された2016年度の日本死の臨床研究会年次総会に参加した。
会員になって初めての年次総会参加であったが、生と死について、2日間様々に考えを巡らせることができた。
印象に残ったのは、
〇日本のホスピスのパイオニアとして、数千の看取りに立ち会ってきた淀川キリスト教病院名誉院長の柏木哲夫先生が語られた、死を迎えるにあたっての「和解」の大切さ。なぜ自分が死ななければならならないのか、という自分との和解、関係をこじらせた家族や友人との和解、そして超越者との和解。これらとの和解が出来るかどうかが、穏やかな死を迎えることが出来るかどうかを大きく左右する。
〇宅老所よりあい村瀬孝夫氏の、一人の「呆け老人」の看取りを通じた施設職員の学びを通じて、呆けても最期まで生ききる「命の寿ぎ」(氏はあえて「認知症」という言葉を使われなかった。呆けるのは認知症という病気ではなく、老いてきた人として自然な「現象」であるとの考えだ)
〇浦河の「べてるの家」理事長の向谷地生良氏の語った、統合失調症患者との「当事者研究」の凄さ(自分の病気を客観化して、「研究」対象として患者に研究させるというのは凄い。どんな時に「幻聴」さんがやってくるのか調べてみよう、とか)
〇多くの子供たちを看取ってきた小児科医、細谷亮太氏の話から感じた、人生の質は時間ではないこと、子供たちのよりよい生を支援する取り組みの大切さ
〇浄土真宗の僧として、病院での末期患者のベッドサイドでの傾聴活動をされている長倉伯博氏が語った、患者と傾聴者の関係は「逝く人とこの世に残る人」でなく「先に逝く人と後に逝く人」の関係である、との言葉
さらに、若い看護師さんたちの事例研究会を傍聴した。
快癒する見込みがほとんどない中で、奇跡を信じて苦しい抗がん剤治療に取り組み、最期まで苦しみ続けた20代の若い女性のケースが紹介され、医療者としてこれで良かったのか、どこかで治療をやめて緩和医療に移行するギアチェンジを促すべきではなかったか、と治療にあたった看護師さんから問題提起があった。
「最期まで戦うのもその人の生き様、その人らしさで、それを支援できたのだからいいのではないか」、
「野球の試合で9回裏10対1という絶望的な試合でも最後まで懸命にみんな応援する。それと同じ」
といった議論を聞いていると、終末期医療に携わる方々の真摯な姿勢に頭が下がる思いがした。
クワイ川に虹をかけた男
25年前にタイを一人旅し、この「戦場に架ける橋」を訪ねて以来、泰緬鉄道のことを調べるのはライフワークとなった。
陸軍通訳として泰緬鉄道建設に関わり、駆り出された連合国軍兵士の元捕虜、現地労務者を訪ねて贖罪し、タイの子供たちの支援に一生を捧げた永瀬隆氏の生涯を追ったこの映画は、歴史問題というより、天から与えられた自分の使命とは何かを考えさせられた。
また、ともに使命を果たすための同志愛のような夫婦の結びつきも素晴らしいと思った。とくに奥様の葬儀とお別れのシーンは、今思い出しても、熱いものが込み上げてくる。こんな夫婦は幸せだな、と思う。
映画の中で氏は言う。「人生は虚無であるが、対象を見つけてそこに虹の橋を架ける。それが人生だと思う」
その言葉を映画館の片隅で噛み締めた。
日暮里
仕事を終えてから参加できる社会人向けの座禅道場があると聞いて行ってみた。
初めて日暮里駅に降り、高層ビルがニョキニョキ建っている繁華街と反対側の、ちょっと裏ぶれた感じの南口改札を出て気がつくと広大な谷中霊園のど真ん中を歩いていた。
山手線を降りて1分で江戸時代からの墓場にタイムスリップする日暮里恐るべし。
辿り着いた道場で静かに座っていると、ほんの1時間前の職場の喧騒が嘘のようで心地よい。OLさんらしい女性も多く、お坊さんでなくネクタイを締めたおじさんから警策を肩に受けるのもまた面白い。
興味がある方はこちら
http://www.ningenzen.jp/seinenbu/