介護民俗学という希望 六車由美著
「聞き書きは単なる傾聴ではない、聞き手と話し手の真剣勝負であり、過去を掘り起こすことで真剣に老人の人生に向き合い、死に向かって寄り添い伴走することであるとともに、人が老いていくことの在り方や意味を考える深い営みではないか。」
素晴らしい本を読んだ。
民俗学の研究者で、大学で准教授として教壇に立っていた著者は、福祉の現場に新たな道を見出すべく、デイサービスの介護士となり、介護の現場で、民俗学の基本である「聞き書き」を利用者に対して行う。利用者の方々の背負っている地域の歴史を紐解き、そのような歴史的行事を利用者みんなで楽しんだり、認知症の方の記憶をたどって子供の頃によく食べた懐かしの味を利用者みんなで再現したりという催しの中で、利用者さんたちでひとつの家族のような打ち解けていくさまが興味深い。また、認知者の方から聞き取った妄想や思い込みも含めて「人生すごろく」とし、恐ろしい体験も双六のハイライトとしてみんなで楽しむなど、認知症の方の世界をみんなで共有することが語られる。
著者は、行政から課せられる「認知症を遅らせる」「自立を助ける」という言葉にも違和感を持つ。認知症の方の見ている世界も一つの現実として認め合うこと、自立でなく「下降志向の運命共同体」として支えあうこと、そして、老人にとって「平穏な日常」が本当に良いことなのか、を問う。
「民俗学の聞き書きの特徴は、お年寄りの経験知を尊重することである。そうした聞き書きを介護施設で行うことは、利用者さんの生き方が立体的に浮かび上がってきたり、利用者さんとスタッフの立場が逆転するといったことばかりでなく、社会において価値を失って無用のものとみなされていた「老い」に再び価値を見出していく行為である」という著者の考えに深く共感する。
私もよく自分の関わっている地域の活動で老人福祉施設をよく訪問するが、お年寄りの方々の持つ内的な世界の豊かさに驚くとともに、それが「平穏な日常」の中に埋没してしまっていることが残念でならなかったが、厳しい福祉介護の現場を目の当たりにして、それはないものねだりではないか、と思っていた。この本を読んで、まだまだ福祉の現場には希望があるのだ、と心強く感じた。
https://www.amazon.co.jp/介護民俗学という希望-「すまいるほーむ」の物語-新潮文庫-六車-由実/dp/4101214468
人魚の眠る家
【ネタバレです】
脳死と心臓移植。失われる命と新しく生まれ変わる命。
脳死は死か否か。現状の日本は、それは本人の意思と遺族が決めること。
まだ温かく、反応もある娘を死んだものとして認めることができない母。
最先端の科学技術によって、娘は神経ネットワークに人為的に流れる信号によって動かせるようになった。人為的に笑わせることもできる。でもそれはとてもグロテスクなことだと父は気づく。でも母は受け入れない。それはむしろ生きている証なのだと母は思う。夫妻の考えは相いれない。
この映画のハイライトは、なんといっても娘がこれまで懸命に介護してくれた母にお礼と別れを告げに来る場面である。これでようやく母は、娘の死を認め、心臓移植を承諾する。娘の心臓は命の灯が消えかけた誰かに新しい命を吹き込む。どこかで娘の心臓は鼓動し、誰かの命をつないでいる、という思いに支えられて夫妻は生きていく。
それにしても、ラストシーン。娘の心臓を移植されたと想像される男の子が、かつて偶然会った脳死の少女の家を訪ねたら更地になっていた、という結末。これは何を意味しているのだろう。命を渡した者と渡された者の交流は許されず、渡された者はただ、渡した者とその肉親の思いを受け止めて生きていくしかないのだ。
こんな夜更けにバナナかよ
「生きることは人に迷惑をかけること」 「障碍者は親兄弟が面倒を見るもの」という常識を変えたい」 「病院に縛りつけられるのではなく自由に生きたい」 筋ジストロフィー患者として42歳の人生を全うした実在の鹿野氏がモデル。
筋ジス患者であっても夢があり、諦めずその実現に向けて毎日を過ごす そのためにポランティアに頼るが、繰り返し言われるのは「鹿野氏とポランティアは対等」ということ。そして。あえて親を遠ざける。そうでなければ、親の余生が介護一色になってしまう、という配慮である。
人はどんな境遇にあっても、こんなにも人に勇気を与えることができるのか。すべての筋ジス患者がこのように生きられるわけではない。できない患者の方が多数だと思う。だからと言って、特殊な例、とは片付けることなく、患者ができるだけ自由に、自宅で過ごせるような形を作っていくことができないか。「人に迷惑をかけるな」と教えられてきた。ただ、迫りくる高齢化社会、そして認知症の増加と言った問題は、問題を親や子、親族だけの問題にしないで、社会で助け合う、つまり、「堂々と迷惑をかける」ということなのてはないか。
欧米では車いすの方がバスや電車に乗るのに、鉄道会社やバス会社の職員の助けが必要になることはほとんどない、という。なぜなら、バス停に車いすの方が待っていたら、バスの乗客たちが飛び出して行って乗降を手伝うから、ということらしい。助け合う社会に近づいていけたら、と思う。
生と死のミニャコンガ
最後まで一気に読ませる、すごい本だった。
1981年、中国、ミニヤコンガ峰登頂に挑んでいた著者一行を襲った滑落事故。8名の仲間達を一瞬に失い、自身もクレバスに落ち込んだり死とスレスレの体験をする。
「生き残った者」としての十字架を背負い、現れる仲間の幻影と向き合いながら、「生きることとは何か、死とは何か」という問いを繰り返す。そして、遺体収容の旅、遺族たちとの語らい、そして、過去を乗り越えて、著者は再び登山へと向かう。
生と死を分かつのは本当に薄っぺらい偶然であるが、それでも研ぎ澄まされた直感で危険を予知しうる野生動物のような能力を、人間は本当は持っているのかもしれない、と感じた。
壮絶な体験を乗り越えてきた著者のたどり着いた境地には到底凡人は到達できないが、科学では割り切れない人知を超えた何ものかの存在や、他人の魂に生き続ける限り、魂は存在し続ける、誰も他人の心の中に生きなくなったときに本当に魂の死が訪れるのだ、自分はできるだけ長く、他人の心の中に生き続けたい、という著者の心情に深く共感する。
NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」を観て
重いので関心のない方、気分が塞いでいる方は読まないで下さい。あと、ネタバレが嫌な方も。
体調不良で久しぶりの自宅で過ごした休日、溜まったテレビの録画を見て衝撃を受けたのがこの番組。難病に陥った通訳の女性が、日々の苦しみ、オムツ換えなどを生涯他人に頼って生きていくことに絶望し、苦悩しつつ、安楽死が合法化されているスイスに渡航し、安楽死を選ぶまでを描いたドキュメンタリーだった。
最も衝撃的だったのはラストシーン。最終的な意思確認のあと、姉2人に見守られながら毒の入った点滴を自ら開栓する。「ありがとう」と叫びながら、妹は抱擁する姉の腕の中で事切れる。これは演技ではない、実際に起こったことで、私の見ている前で彼女は亡くなったのだ。ここに至るまでの彼女や姉たちの苦悩に、思わず涙が流れる。
でもこれはまぎれもない自殺ではないか。
そうなのか、積極的安楽死は医師が行うと外形的には殺人に見えてしまうので、こうするしかない、あくまで患者の自己決定権の行使なのだ、と気づく。スイスでは死を選ぶことも含めて自己決定権が尊重されているからこそ、できることだという。耐え難い苦痛に苛まれてきた彼女の選択が間違っているとも言えない。
安楽死が合法化されていない日本に遺体を運べず、現地で荼毘に付され遺灰はスイスの川に流されたという。これも何ともいえず悲しいことだ。
安楽死、答えのでない、難しい問題だが、高齢化が進むこれからの日本においてもきっと問われる日が来る、というか、すでに問われている。日本でできないから海外に向かう患者がすでにいるのだ。
視聴後、重苦しい気分が残った。彼女がすでにこの世にいない、という事実が重い。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190602
信仰と医学〜聖地ルルドをめぐる省察〜 帚木蓬生著
ルルド。南仏、ピレネー山脈のふもとに位置する街。少女ベルナデットが来臨した聖母マリアに会った奇跡の町として有名なこの街に、大雨の中、私がたどり着いたのは10年くらいの5月だった。
最初は、ずらっとホテルが立ち並び、土産物屋がずらっと夜遅くまで蛍光灯をあかあかつけながら営業しているさまを見て、最初はげんなりしたものだった。が、2-3日滞在し、奇跡の起こったとされる泉の水を汲み、車いすやベットに横たわったまま沐浴する人たち、それを介護する人たちを見ていると何とも優しい気持ちになれた。
その思いは、夜のろうそく行列(聖母マリア像を先頭にロウソクを持った信者たちが教会内を行進するもの)を、アベ・マリアを口ずさみながら見物していた時に頂点に達した。
さてこの本。
ルルドで沐浴したら重い病気が治った、等の「奇跡」を、「ルルド医学検証所」の専門家が医学的に厳密に検証し、本当に医学的に説明のできない治癒かどうかを判定する取り組みが今も続いていることは驚きで、現役の精神科医でもある著者の解説が光っている。これまで70例の「医学的には説明できない治癒」として認定されているそうで、それらは膨大な申請件数の中で厳密に審査された結果だそうだ(さすがに、検証所の医師たちは科学者として「奇跡」という言葉は使わない)。
「科学」と「信仰」は、全く交わらないものではなく、ルルドはまさにその交差点上にあり、お互いを照らしあう存在であることに気づかせてくれた。
人間のやさしさに包まれる場所としてのルルド。10年前の訪問で実感したがまた行きたくなった。