ゴールデンウィークも過ぎて

気が付けば1か月もあいてしまった。月日が飛ぶように流れて行く。

五月の4連休は、妻を札幌に呼びよせてドライブ。初日は日高路をひた走り、襟裳岬から黄金道路、そして鹿追のオソウシ温泉へ。

翌日は愛国駅、幸福駅と言った旧国鉄広尾線の名所を回りながら、六花亭、中札内休暇村へ。

そして、その翌日は中札内美術村から一気に十勝平野を駆け抜け、新得で花見、南富良野から美瑛へ。

最終日は美瑛の丘めぐり。

夫婦水入らずの楽しい旅であった。

そして妻が帰った後の週末。今度は金曜日の最終高速バスで旭川に入り、翌朝6時発の宗谷本線各駅停車に乗って一気に稚内まで。

折角の鈍行旅行なのに疲れと眠気で、音威子府までずっと眠りこけてしまう。

しかし、その先が素晴らしかった。天塩川に沿った雄大な沿線、そして抜海付近の、利尻富士雄大な景色。

稚内でレンタカーを借りてドライブ開始。まずは抜海でもう一度利尻富士を拝んで、宗谷岬へ。

サハリンが肉眼で見えて感無量だ。

猿払村。ここで私は初めてインディギルカ号の悲劇を知る。

1939年12月、ソ連船インディギルカ号は、猿払沖の海岸で座礁、転覆。

700名以上の犠牲者を生む大惨事となった。

船客はカムチャッカでの漁を終えてウラジオストクに戻る予定だった漁業者一団、というのが公式見解であるが、後年の研究は、シベリアで強制労働に駆りだされていた囚人の護送船だったという事実を明らかにした。スターリン時代の歴史の暗部がこんなところに顔を出していたのだ。私は偶然ここを通りかかるまで、まったくこの事故を知らなかった。

その後浜頓別を抜け、旧国鉄興浜北線だった線路跡をたどる。

特に、海に突き出た神威岬

32年前、高校一年生だった私は、大阪から1人で北海道に来て、この日、北見枝幸駅から車上の人になった。

辺り一面の雪景色だった。荒れた海を見ながら、私はいつしか眠りに落ちた。

はっと目を覚ますと、列車は海沿いのレールを北上していたが、前方を見ると海に突き出た断崖が見える。

この列車はどうなるのだろう。

そう思いながら固唾をのんで見守っていると、列車は岬の灯台の足元をくるっと回り込んだ。

あのときの情景がまざまざと蘇ってきた。

そして今、その鉄道がなくなってから30年近くたった線路跡を、こうして歩いている。

32年前、確かに同じこの空間に身を置いていた自分の姿を思い出した。32年後の自分が、こうして、廃線跡を歩くことになることは夢想だにしなかった。時の流れは不思議なものだ。

白骨化した動物の死体があったり、うら寂しい。

私は車に乗り、先を急いだ。この日は豊富温泉泊。

そして翌日は一気にオロロンラインを南下、といってもあちこちで旧国鉄羽幌線の廃線跡に引っかかるので、中々進まない。この線は一回も乗らないまま廃線になってしまったのだ。

古平で、重要文化財になっているニシン番屋を訪問した。

一気に南下して増毛。そこで海運やニシン漁、酒造で地域を起こした豪商の館を訪問した。

大正時代に亡くなった館主夫妻の遺影のある仏間、そしてそのとなりの居間。

私は居間に入った時、部屋の主だった親方の気配を感じて、誰もいないことをいいことに思わず座りこんで瞑想した。

生前の親方がここでどんなことを考えていたのか、使用人、奥方とのやりとり、日々の経営の切りまわし、そして隠居生活、そしていまわの際に脳裏をよぎったことなど、いろいろ空想して見た。

楽しい時間だった。旅の醍醐味であるし、こうして何か当時をしのぶよすががある限り、私の想像は時代を越えて飛んで行ける。

昼食にニシンそばを食べ、喫茶店でコーヒーを飲みながら店主とよもやま話をした。

旅はいいなあ、心からそう感じた。

そのまま雄冬へ。展望台からみた眺めは素晴らしかった。ここで夕陽を見たい、そう決めた私は夕方までの時間を雄冬の町を見て回ることにした。

と言っても小さな町。廃校になった小学校では、チューリップの花が美しく咲いていた。校庭には桜も。

とっぷりと夕陽が暮れて行った。またこの街にくることがあるだろうか。